《一言居士の使い方》糸井重里、星新一、茂木健一郎などの実例集

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一言居士(いちげんこじ)」とは、何にでも一言いわないと気のすまない人のことを言います。この四字熟語の実例を紹介します。

 

▶︎糸井重里『糸井重里の萬流コピー塾』
だから、書いた人、写真の人、読む人、という三者の距離感が見えてこない。 あまりにも高みの見物、単なる小うるさい一言居士、なのである。 政治、風刺をねらっていても、うまくできているものもある。

▶︎星新一『きまぐれ暦』
たしかに便利にはちがいないが、私のように迷わされる者もいるのだ。 三十年の年月は、私を一言居士にしてしまったようである。
▶︎織田作之助『実感』
父親は偏窟の一言居士で家業の宿屋より新聞投書にのぼせ、字の巧い文子はその清書をしながら、父親の文章が縁談の相手を片っ端からこき下す時と同じ調子だと、情なかった。 秋の夜、目の鋭いみすぼらしい男が投宿した。
▶︎山田風太郎『室町少年倶楽部』
右にのべたような諸家の内紛にもいちいち首をつっこんで来るが、がいしていえば彼は旗色の悪いほうへ肩いれをした。 へそまがり、一言居士といっていいが、世には彼を侠勇の将と呼ぶ者もあった。 勝元からすれば、それも宗全流の人気とりの策略に見える。
▶︎陳舜臣『秘本三国志 06 (六)』
孔融は一言居士であった。
▶︎寺田寅彦『柿の種』
もしかするとそれは口をきくと自分の美と尊厳をそこなうことを恐れる人ではないかという気がする。 またこれと反対にいわゆる一言居士いちげんこじと称するのもある。 これはもちろん自分の一言の真と美を信ずるからのことであろう。
▶︎杉本苑子『大江戸ゴミ戦争』
誘い合って、何であれ町内のできごとというとかならず出しゃばる一言居士の麹屋の隠居、お駒後家、糊屋の婆さん、はたまた寺子屋師匠の凌雲軒先生までが愛猫のミイをふところに抱いて馳せ参じたから、筆屋の店先は土間にまで人が溢れるほどの大入り満員となった。
▶︎茂木健一郎『「脳」整理法』
逆に、思想的立場からいえば、科学者のように、あるかどうかも絶対的な意味ではわからない「客観的真理」なるものに頼ってもいられない、ディタッチメントなど維持できないという気持ちもあるのでしょう。 実際、たとえば憲法問題のようなきわめて政治的、そしてある意味では現実的な問題において、一言居士のように「真理」だけを説いていればよいのかどうかは疑問です。 「真理」だけ見ていても、なかなか「思想の社会的身体」は見えてこないからです。
▶︎丸谷才一『女ざかり』
最後の飲み会は出席者が多く、噂を聞いて顔を出すOBもあつて、非常な盛況である。 これならやめなくてもいいのに、と外報部出の論説委員が言ふと、学藝部出身の一言居士が、雑誌の終刊号が売切れるやうなものさとまぜつ返した。 もちろん開会の辞の前にもうみんなが飲み出してゐる。
▶︎佐木隆三『旅人たちの南十字星』
編集局といっても、記者が全員揃って十三人の、狭い部屋である。 日頃から一言居士で知られる文化部長が、珍しく饒舌じようぜつなのも、日本から来ている特派員たちが色めきたっていることへの、皮肉なのだろうか。
▶︎近藤絃一『したたかな敗者たち』
どうやら本音らしかった。 一言居士で知られるラジャラトナム副首相でさえ気遅れするほど、シンガポールとインドネシアの力関係には格差があり、また、ある面での関係は疎遠である、ということなのだろう。 あらためて、この地域の国々の関係の複雑さを知った。
▶︎中野好夫/安野光雅編『悪人礼賛 ―中野好夫エッセイ集』
そのほか二、三の団体に関係もあるが、そうした団体の集会で、日本人は率直な御意見をと問われても、述べるものはおそろしく少数である。 述べるのは多くの場合一言居士か、屁理窟屋に決っている。 その他の連中はいったい何を考えているのかよくわからぬ。
▶︎坂口安吾『二流の人』
之ぞ目指す大敵、将星一堂に会して軍略会議がひらかれる。 このときだ、隠居はしても如水は常に一言居士、京城に主力を集中、その一日行程の要地に堅陣を構へ、守つて明軍を撃破すべしと主張する。 大敵を迎へて主力の一大会戦であるから理の当然、もとより全軍異議なく、軍議一決の如く思はれたとき、小西行長が立つて奇怪な異見を立てはじめた。
▶︎鮎川哲也『死者を笞打て』
中国に、坊主だか哲学者だか質屋の親爺だったかよく覚えていないが、とにかく一言居士みたいな人がいて、山高きをもって貴しとせず、木多きをもて貴しとすとか何とかいったそうだが、バーの一流たる所以はいかなる条件によるのだろうか。 勘定書きが高いということか、内部が広くて飾りつけが凝っているということか、それとも美女がわんさといるということか。
▶︎砂川しげひさ『コテン氏の音楽帖』
ときどき中学・高校生といった若いクラシック・ファンからお便りをいただく。 その多くがすでに「一言居士」で、マーラーの「大地の歌」はワルターでなくてはならぬとか、ブルックナーの「第七」はフルトヴェングラーでなくてはならぬとかいったことを書いてくる。 何もクラシックを聴くのに「イロハ」があるわけではなく、セミ・クラから入ろうが、ワーグナーから入ろうが別に構わない。
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